心に引っかかること

今、大学での仕事として文科相から補助金を得て、「グローバル人材の育成」に取り組んでいます。(補助金名は、「経済社会の発展を牽引するグローバル人材育成支援」という嫌な名前ですが。)

内田樹氏の文章「資本主義末期の国民国家のかたち」を読んで、「ではどうしたらいいのだろう?」と考えています。短期的な視野に陥らないように、本当に本心から目指したい理想像を失わないことが肝心でしょう。

グローバル人材育成は買弁人材育成

 僕はいつも、自分が国務省の小役人だったらという想定で物を考えるんですけれども、上司から「内田君、日本は特定秘密保護法といい、集団的自衛権行使容認といい、アメリカのためにいろいろしてくれているんだけれど、どちらも日本の国益に資する選択とは思われない。いったい日本政府は何でこんな不条理な決断を下したのか、君に説明できるかね」と問われたら、どう答えるか。

たしかに、国益の増大のためではないですね。沖縄返還までの対米従属路線であれば、日本が犠牲を払うことによってアメリカから譲歩を引き出すというやりとりはあったわけですけれども、この間の対米従属をみていると、何をめざしてそんなことをしているのか、それがよく見えない。たぶん、彼らは国益の増大を求めているのではないんじゃないかです、と。そう答申すると思います。

今、日本で政策決定している人たちというのは、国益の増大のためにやっているのではなくて、ドメスチックなヒエラルキーの中で出世と自己利益の拡大のためにそうしているように見えます。つまり、「国民資源をアメリカに売って、その一部を自己利益に付け替えている」というふうに見立てるのが適切ではないかと思います、と。

<中略>

対米従属すればするほど、社会的格付けが上がり、出世し、議席を得、大学のポストにありつき、政府委員に選ばれ、メディアへの露出が増え、個人資産が増える、そういう仕組みがこの42年間の間に日本にはできてしまった。この「ポスト72年体制」に居着いた人々が現代日本では指導層を形成しており、政策を起案し、ビジネスモデルを創り出し、メディアの論調を決定している。

 ふつう「こういうこと」は主権国家では起こりません。これは典型的な「買弁」的な行動様式だからです。植民地でしか起こらない。買弁というのは、自分の国なんかどうだって構わない、自分さえよければそれでいいという考え方をする人たちのことです。日本で「グローバル人材」と呼ばれているのは、そういう人たちのことです。日本的文脈では「グローバル」という言葉をすべて「買弁」という言葉に置き換えても意味が通るような気がします。文科相の「グローバル人材育成」戦略などは「買弁人材育成」と書き換えた方がよほどすっきりします。


私は、現在の政権(=安倍晋三内閣)には強い違和感(=気味悪さと怖さ)を感じています。(ちなみに、第一次安倍内閣にも気味悪さを感じていました。今はさらに怖さが加わっています。)このままの主義主張を貫かせてはいけない、と思っていますが、では何ができるのか?

今、現実に日本で国政の舵をとっている人たちが何を考えているのか、どういう欲望を持っているのか、どういう無意識的な衝動に駆動されているのか、それを白日のもとにさらしていくという作業が、実際にはデモをしたり署名を集めたりするよりも、時によっては何百倍何千倍も効果的な政治的な力になるだろうと僕は信じております。

と内田氏は言います。そのようなちゃんとしたジャーナリズムが少しでも生きている限りは、このような情報をしっかりと受け取って、必要ならば意見を表明していく、という行為の積み重ねがきっと大事なんだろうと思っています。