ゼロリスクという魔物
何のリスクもなしに人生を送ることはできない。話しを「食」に限っても、リスクが全くない状態を求めることはできない。許容(覚悟?)自らの責任で回避しなければならない低レベルのリスクはある。
昨今、「食の安全・安心」というスローガンが日本を闊歩している、「安心」という優しそうだがよく考えると意味不明な言葉が一人歩きをして、食品の安全性を冷静に、合理的に考えるのに妨げになっているように思う。まったくもって情緒的な言葉である。
ゼロリスク探究症候群という重篤な慢性精神疾患が日本に広がりつつあると感じるが、この言葉の初出はどこだろう。おそらくこちらだろうか。狂牛病に関して、牛肉を食べることのリスクを論じた時にできた言葉ではあるまいか。同じ趣旨の文脈で「ゼロリスク」という言葉をこちらのblogで見かけた。まったくもって同感である。特に、我々が科学と一般消費者の間のスムーズな情報媒介者として期待しているマスコミ媒体の機能不全は著しいと感じる。基礎知識と基本的な情報伝達態度が貧困である。
同じ気持ちを、汚染米の購入先リストの公表問題でも感じた。いざ公表したらしたで、マスコミは(その情報を公表しないのはけしからんと唱えていたはずだ)は、またどこか別の対岸に避難して、いきなり公表するとはけしからんと非難している。農水省と消費者庁の間のスタンドプレーの応酬も見苦しい、これにマスコミもグルだろうと感じる。
風評被害の「風評」はどこから発生してどのように広がったのか、一度でも行政とマスコミは自省して行動を改善したことがあったか。日本を変えたいならば、為政者でなくまずジャーナリズムから変わらないと駄目な気がする。じゃあ、私たちはどうするのか? まずは愚かな報道・コメントに踊らされないように自らを磨くしかないだろう。人頼みだからつけ込まれる。あ、結局われわれ一人一人が先に変わろうと思わねば何も変わらないこと言うことか。