「できそう」は「できた」でいいのか?
読売新聞朝刊で見かけた西澤潤一氏(首都大学東京学長)の意見として、『できてはいないけど、できそうなものは「できた」と解釈する国民的コンセンサスがないと、国際的な特許競争に負ける』と危惧しておられる。特許に限って言えば、これは本当かもしれない。でも私は違和感を感じる。科学者どおしがお互いを励まし合うようなコメントをするのはいいけれど、同時に批判することも重要だ。
決して、役に立つことが明らかな科学だけが重要というわけではない。ある技術が真に国民の福祉に役立つ物かどうかを厳しく評価することとと、失敗したり役立たないかもしれないリスクを理解して基礎研究その他にお金をつぎ込むことは、どちらが欠けても科学の健全な発展に結びつかないだろう。
これで連想したのは、部門の新歓パーティーにおける挨拶で述べたことだけど、最近、次世代○○、未来型□□、戦略的△△、××創成、独創的…、未来志向云々、なんて名前の教育・研究プロジェクトが目につくこと。
- 未来型食料環境学の創生
- 未来型ピンポイント治療の先導研究
- 未来型農作業体系
- 戦略的デザイン活用研究会
- 戦略的革新ソフトウェア
- 戦略的基礎創薬科学
- 次世代バイオデータベース
- 次世代生命体統合シミュレーション研究
まことにごちそうさま(I'm fed up.)、という感じである。そう言えば我が九大にもすごいのがあったな。
- 九州大学研究戦略委員会は「次世代研究スーパースター養成プログラム」を7月1日に発表した。(九大ホームページより)
「次世代」はその後ろのどの単語に懸かってもよいようである。
独創的で夢を感じさせる科学や施策は大事だが、もうちょっと地に足ついたネーミング感覚も大事なのではないかしら。これではプロジェクトの名前からしてステレオタイプで、独創的に聞こえない。